牛女のときおり徒然草

- 徒然草 葉月の頃 (8/28/2025)
徒然草 葉月の頃
縁あって,修学旅行以来の十和田湖に行ってきました。十和田湖が冬でも凍らないのは常に風が吹いているからだとか。自分は地球の一部だぞというように風に水面をなびかせて、日の光にキラキラ輝く美しい十和田湖を眺めていると,心がすーっと洗われた気がしました。
頭の良い人間が、快適な環境を作れば作る程、地球は崩れている様な気がします。
今年は世界的に蜜蜂が減っていて蜂蜜の量も少なくなっています。ピラミッドの時代から人と共存してきた蜜蜂が消えてしまう時が来るかと思うと何だか恐ろしい。
命のサイクルが短い生命体の方が環境に対する耐性をつけやすいと考えると、人間の様に100年近く生きる命は滅びて行き、毒々しい熱帯の昆虫たちが地球にはびこったりするかしら なんて考えてます。
まあ,それはそれで自然と言えるのかもしれませんが、人の叡智で森や海や豊かな土を育む努力を少しでもできればと思っております。
- 徒然草 皐月〜水無月の頃 (5/31/2025)
徒然草 皐月〜水無月の頃
東京では雨の似合う紫陽花が咲き始め、梅雨を心待ちにしているかのよう。
旧暦の二十四節気では、既に立夏を過ぎ小満の頃。動物も植物も昆虫も人間も、全ての命が満ちていき、日を浴びて輝く頃とされています。
私も雨に打たれ、心洗われ、日を浴びてキラキラしたいなぁと思いますが、そう簡単に行かないのが人間の性ですかね。先日いらしたお客様が、手土産を忘れてきてしまったとのことで、わざわざ宅急便で送ってくださいました。
開けてみると〈蓮もち〉というもので蓮の根からとる蓮粉と和三盆糖蜜を練りあげた上品なお菓子。私は食いしん坊なので早速頂きました。透き通ってプルプルで、ほんのり甘く、香りは高級なブランデーの様な深みがあり、初体験の味。この季節のジメジメを忘れさせてくれる、美味しく素敵なお菓子でした。蓮というから、ついつい大きくて美しい花を連想し、根っこってどんなだっけ? とうっかり考えてしまいましたが、あっ、私の大好きなレンコンだぁと気づきました。
レンコンはビタミンCとカリウムが豊富でお肌を潤し心のざわつきを鎮めてくれるそうです。今の私にタイムリーなお菓子です。時に、漢方では相似の理論というのがあるようです。人も植物も地球上の同じ生命体なのである一面似ているものと言う考え方だそうです。その観点から人間の下半身が植物の根に当たるとされ、人の下半身の病にはレンコンなどの根菜類が効果的なのだとか。
古来から種を保存し続けているだけありますよね。蓮を使ったことわざに「一蓮托生」と言うのがあります。この言葉、俺とお前は一蓮托生だとかで、意気込んだ感じでよく使われる気がするのですが、調べてみたらもっとロマンチックな「蓮の台(うてな)の半座を分かつ」と同義語になっており、死んだあと極楽に行ったら一枚の蓮の葉に座り、いつまでも2人で幸せでいようね。と言う意味でした。
蓮の台の半座を分かつ こんな風に思えるお相手がいたらとっても幸せですよね。
因みに88歳の私の母は、察するところ、父と2人で蓮の台の半座を分かつつもりでいる様な気がします。そうなるといいなぁ!皆様はいかがですか⁈
- 徒然草 卯月、皐月の頃 (5/11/2025)
徒然草 卯月、皐月の頃
春は三寒四温と言う。それにしてもこのところの寒暖差は激しく、脳が予測しきれないから身体も対応できず不調になっている。花粉なのか埃なのかわからないけれど鼻がグズグズして気持ちが悪い。
ずっと人間は自然の一部だと思ってきた。でも最近、人間はもうすでに自然界から脱落してしまったのではないかと思うようになった。
人間はより良く生きるために次々と新しいものを作り出す。生きるだけなら必要ないものまでどんどん作り出す。それは自然を破壊し、かつ再生不可能な物質をたくさん作り出すし、生活動することによるゴミは莫大な量になり自らを苦しめている。
アンデシュ・ハンセンの「ストレス脳」という本を読んだ。人間の脳と身体は狩猟採集民の時代からあまり進化していないらしい。びっくりしたけれど、どおりでと納得もできる。
脳が自分の命を守ることのみ考えるならば、世界中の人が、それぞれに「今」をよりよく生きるだけになる。
生き延びた人が次の時代をつくるから、先のことなんか考えないで環境を破壊し、戦争して奪い合い、結果、人類はほろびてしまうかもしれない。
それとも脳だけが発達して身体が退化して、クラゲ火星人みたいになってしまうのかもしれない。
かく言う私も毎日、掃除機も洗濯機も冷蔵庫もエアコンもなければ生きていけないから、仕方ないかな? とりあえず今、戦火の国にいないだけ幸せなのかと思ってしまう。
そんな毎日の中で、この間カフェのお客様がこんな話をしていた。
先祖代々の墓がいっぱいになってしまったので曾祖父の骨壺を開けてみたらきれいな水になっていたと。微生物が骨を分解してくれたから、微生物のお蔭様だそうだ。
何だかちょっと嬉しくなった。
土があって微生物さんがいて長い年月があれば、人間は土に還れる。生命体としてはまだ、自然の循環の輪に入れるのだ。私は土に還ることができるんだ。
私は死んだら土になりたい。
では、何をしたら私は土になれるのだろうか?
それは、もしかしたらなのだけれど、「うしろを向いて歩くこと」かもしれない。
ほとんどの生物が前しか見えなくて、進化することしかできない。
ゴキブリを殺虫剤で殺せば、しばらくしてその殺虫剤に耐性にあるゴキブリが出現する。進化は永遠の「いたちごっこ」だ。でも生命体のトップの人間は過去を把握することができる。何をしたからどうなったか知ることができる。核兵器を作ってどうなったか? 森林伐採をしてどうなったか? 地震や津波でどうなったか? 歴史をただの知識にせず知恵として、ほんとうの幸せの形真の幸せを模索して、必要であれば少し退化してみてもいいのではないか?
やってみれば月に行くとか火星に行くとかよりはたやすいのではないか、なんて満月少し前の月を眺めて考えた。