
徒然草 卯月、皐月の頃
春は三寒四温と言う。それにしてもこのところの寒暖差は激しく、脳が予測しきれないから身体も対応できず不調になっている。花粉なのか埃なのかわからないけれど鼻がグズグズして気持ちが悪い。
ずっと人間は自然の一部だと思ってきた。でも最近、人間はもうすでに自然界から脱落してしまったのではないかと思うようになった。
人間はより良く生きるために次々と新しいものを作り出す。生きるだけなら必要ないものまでどんどん作り出す。それは自然を破壊し、かつ再生不可能な物質をたくさん作り出すし、生活動することによるゴミは莫大な量になり自らを苦しめている。
アンデシュ・ハンセンの「ストレス脳」という本を読んだ。人間の脳と身体は狩猟採集民の時代からあまり進化していないらしい。びっくりしたけれど、どおりでと納得もできる。
脳が自分の命を守ることのみ考えるならば、世界中の人が、それぞれに「今」をよりよく生きるだけになる。
生き延びた人が次の時代をつくるから、先のことなんか考えないで環境を破壊し、戦争して奪い合い、結果、人類はほろびてしまうかもしれない。
それとも脳だけが発達して身体が退化して、クラゲ火星人みたいになってしまうのかもしれない。
かく言う私も毎日、掃除機も洗濯機も冷蔵庫もエアコンもなければ生きていけないから、仕方ないかな? とりあえず今、戦火の国にいないだけ幸せなのかと思ってしまう。
そんな毎日の中で、この間カフェのお客様がこんな話をしていた。
先祖代々の墓がいっぱいになってしまったので曾祖父の骨壺を開けてみたらきれいな水になっていたと。微生物が骨を分解してくれたから、微生物のお蔭様だそうだ。
何だかちょっと嬉しくなった。
土があって微生物さんがいて長い年月があれば、人間は土に還れる。生命体としてはまだ、自然の循環の輪に入れるのだ。私は土に還ることができるんだ。
私は死んだら土になりたい。
では、何をしたら私は土になれるのだろうか?
それは、もしかしたらなのだけれど、「うしろを向いて歩くこと」かもしれない。
ほとんどの生物が前しか見えなくて、進化することしかできない。
ゴキブリを殺虫剤で殺せば、しばらくしてその殺虫剤に耐性にあるゴキブリが出現する。進化は永遠の「いたちごっこ」だ。でも生命体のトップの人間は過去を把握することができる。何をしたからどうなったか知ることができる。核兵器を作ってどうなったか? 森林伐採をしてどうなったか? 地震や津波でどうなったか? 歴史をただの知識にせず知恵として、ほんとうの幸せの形真の幸せを模索して、必要であれば少し退化してみてもいいのではないか?
やってみれば月に行くとか火星に行くとかよりはたやすいのではないか、なんて満月少し前の月を眺めて考えた。