リレーエッセイ 小さなまほろばみぃつけた
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vol.03 追悼バタヤン、ふるさとの燈台  [著]南烏山在住 吉川まこと

歌手田端義夫さんが2013年4月25日に94歳の生涯を閉じた。
ステージに登場するときの「オースッ!」がトレードマークのような挨拶になっていた。
「大利根月夜」「別れ船」「かえり船」「親子舟唄」などのヒット曲を、穏やかに情感をこめて歌っていた。
わたしが特に好きな歌は「ふるさとの燈台」である。
この歌は、昭和28年7月に発売されたもので、作詞・清水みのる氏、作曲は長津義司氏である。「年忘れ日本の歌」や「思い出のメロディー」などで歌唱し観客の心をとらえていた。
田端義夫さんは、三重県松阪市の生まれ、3歳のとき父親を亡くし、母親の手によって育てられたが、その生活は貧しかったようだ。「紅しょうが」という歌があるが、紅しょうがをおかずにご飯を食べたこともあるとご本人は歌番組の中で語っていた。まさに赤貧である。バタヤンへの追悼ということで「ふるさとの燈台」の歌詞を紹介したい。

1.真帆片帆 歌をのせて通う
 ふるさとの小島よ
 燈台の岬よ
 白砂に 残る思い出の
 いまもほのかに
 さざなみは さざなみは
 胸をゆするよ

2.漁火(いさりび)の 遠く近くゆるる
 はるかなる小島よ
 燈台のわが家よ
 なつかしき 父のまた母の
 膝はゆりかご
 いつの日も いつの日も
 夢をさそうよ

3.歳ふりて 星に月にしのぶ
 むらさきの小島よ
 燈台の灯よ
 そよ風の 甘き調べにも 想いあふれて
 流れくる 流れくる
 熱き泪よ


色を付けた部分は私が胸を打たれた歌詞である。時代は変わっても、詩はいまの人たちにも受け入れてもらえるのではないか。人はいろいろなかたちでふるさと、そして燈台を持っている。60年前の歌であっても、日本人の心に生き続けることを信じたい。
母の小さな興奮

娘の声楽を指導してくださっている先生がコンサートを開いた時のこと。唱歌なども歌われるというので、喜寿を迎える母を誘った。美しい歌声に耳を傾けのほほんとしていると、何曲か目で石川啄木の「初恋」が始まった。と、母が突然そわそわとしだした。歌の最中だというのに後ろに座っている私のほうを振り向いて、何か言わんと口を開けている。
母は普段あまり社交的なほうではなく、人目をとても気にするたちで、芝居やコンサートに行くと始まりから終わりまで首一つ動かさないのが常であった。そこは昔の人だけあって、ヘタをすると2時間身じろぎもしない。その母が、間奏が始まると、もう待ちきれないと言わんばかりにしゃべりだした。コンサートの、しかも曲の途中でおしゃべりをするなんて、日ごろの母からは考えられないことであった。ついに恐れていた老人性の症状が出てしまったのかと、正直うろたえてしまった。

それでも母は周囲を気にすることなく、私に話しかけてくる。「初恋だって、この曲をつくったのは越谷先生なんだよ。ちょっと聞いてみようかね~」と言うなり、背を伸ばしてステージに向って「あのう」と何か言い出しそうになる。私は慌てて「あとで、あとで、」と母を制した。それからはもう全くコンサートは聴いていない。私のほうを振り向いては「ちょっと聞いてみようか、聞いてみようか?」と繰り返す。私はコンサートのじゃまをしないように、母を落ち着かせるのに必死になり、後半はまったく曲を聴くことができなかった。
やがて、コンサートが終了し花束が贈呈される中で、母はまるで女学生のように手を挙げて立ち上がった。「あのう、さっきの初恋という曲は越谷先生の作曲ではありませんか? 私の中学のときの音楽の先生なんです。」と、母は頬を赤らめ、でも自慢げに言った。先生は楽譜を見てから「作詞は石川啄木とあるが作曲は書いていないので調べてみます。」と応対された。帰り道で、母は「あ~びっくりした。まさか初恋が聴けるなんて思わなかった。今日は良かった」といい続け、帰ってから父にも嬉しそうに話をしていた。
この時、この話はたったこれだけのことだった。
ちょっと心配した老人性の症状の兆候も、思い過ごしだったようでほっとした。

それからしばらくして知人と話をしているときに、「歌は心で歌うもの」と教えた青山学院の音楽教師が越谷達之助と知り、そういえば母も音楽を教わったと言っていたことを思い出した。越谷達之助なる人物を調べてみると、戦前にイタリア留学し、音楽を学ぶが日本人は日本の歌で勝負しなければという思いに至り、詩人、作曲家、俳優として活躍した人物だということがわかった。

しかし母は青山学院などにはいってはいない。終戦後、地元の練兵場の跡地に新しくできた新星中学校の第二期制である。越谷達之助の経歴には新星中学の音楽教師をしていたという記述が見当たらなかった。越谷氏は校歌の作詞・作曲も多く手がけている。母が新星中の校歌の作詞・作曲が越谷先生だったというので、中学から当たってみるべく探したが、新星中は10年くらい前にかつて私も通った池尻中と合併し、新しく三宿中となったため校歌をみつけることができなかった。越谷氏の校歌の作曲リストにも上がってこなかった。

ちょっと余談になってしまうが、最近ベランダで洗濯物を干しているときに、母校の小学校から風に載って校歌が聞こえてきた。懐かしく聞いていたのだが「次~の時代をこの肩に~担う力が湧き上がる」という段で、小学校ではこんなこと歌っていたのに、何もできずにすみません」という気になった。中学の校歌は思い出せない。もう廃校になってしまったから聞くこともできないなと思ったら、なんだかちょっと寂しくなった。

話を戻して、「もう60年以上前のことだし、ほんとうに音楽の先生、越谷先生だった?」と母に聞くと、「だって、あたし音楽部だったんだもん、絶対確か」と証拠写真を出す。講堂で越谷先生と歌っているお下げ髪の少女が写っていた。
私は、母が歌が好きだったことを始めて知った。そう言えば、テレビで歌番組があるとき、家事をしているとき、折につけいつも歌っていた。でもほんとうに蚊のなくような小さな声でよほど気にしなければ気付かない。
7人兄弟の長女として生まれた母は中学を卒業するとすぐに、家計を助けるために三菱の寮の住み込み女中になった。寮の隣に女学校があって音楽室から唱歌が聞こえてきたそうだ。毎日、塀の向こうから聞こえてくる歌に合わせて、長い廊下を雑巾がけしながら、あるいはお風呂場をごしごしこすりながら、「み~かんの花が~」などと、口ずさんでいたという。
母は今でも大きな声で歌うことはできない。耳を澄まさないと聞こえないような、小さな声で、それでも楽しそうに歌を口ずさむ。そんな母にとって越谷先生の音楽の授業は、きっと最高に楽しい時間だったのだろうと思う。コンサートでの母の小さな興奮は、そんな母の中学の思い出を語ってくれたのだった。

牛女

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