リレーエッセイ 小さなまほろばみぃつけた
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vol.02 なくなってしまった「おつかい」   [著]豪徳寺の散人さん

私は仕事柄、あまり夕方の町中を出歩く機会が少ないのですが、たまたま都合があって隣の駅近くの商店街を歩くことになりました。夕方という時間帯もあって、買い物客で賑わっており、子供を自転車に乗せて買い物をする若い母親の姿を見受けました。
用事をすませて帰路に着いたのですが、なんとなく散策してみる気になり商店街をのんびりと歩いてみました。

お肉屋さんでは揚げたてのコロッケが店先にならび、魚屋さんでは元気な親父さんの呼び込みにつられ、八百屋さんでは新鮮な野菜が山盛りとなっており、活気にあふれています。そんななかでも、やはりスーパーには一番人が多く、駐輪場は満杯状態でした。
商店街を中ほどまで歩いて、ふと気がついたのですが、子供の姿が見かけられません。無論、自転車に乗ったりベビーカーに乗っている幼児はいますが、小学校の低学年か中学年くらいの子供はあまり見かけません。母親と一緒にいる子供それも女の子は二人ほど見かけましたが、あとは見かけませんでした。
という風に書くと、「何がおかしい?」と思われる方が多いと思いますが、私には少々物足りなく見えます。

何が物足りないのでしょうか?

昭和40年代を小学生として過ごした私の場合、夕方の商店街というのは大人に混じって子供が「おつかい」をするのが普通に見受けられていたのです。母親が買い物に行くことも多いのですが、買い忘れや夕食の支度で忙しいときなどには、「お兄ちゃん、行って来て」の一言でいかされました。
最近ではエコブームで買い物バックを持たれている方が多いですが、当時はレジバックなんて珍しく、買い物には「買い物かご」が当たり前で、、カートも高級品でした。
買い物かごを肘にかけ、母親のがま口財布をかごにいれて出発です。肉屋さんで豚肉、八百屋さんでニンジンとタマネギ、「今夜はカレーだからね!」
商店街を歩くと大概は何人か同じような子供同士とすれ違います。「今日のおまえのウチは?」「カレー!」「ウチはハンバーグ!」なんて会話をしながら別れます。場合によっては弟や妹の手をつないでいることもあります。

ふとそんなことを思い出し、街中を見渡しましたが、自転車に乗った親子連れや主婦ばかりで「おつかい」をしている子供は見受けられませんでした。少子化が進み、子供の人数が減っているのも理由の一つでしょうが、5人中4人までが学校の授業が終わると学習塾や何らかの稽古に通っており、家の手伝いをするどこでは無いとか。

だからでしょうか、最近の子供には他人とのコミュニケーションを苦手とする子供及び未成年者が増え、口の利き方がぞんざいだったり、(無意識とは思いますが)初対面の相手や年長者に対してタメ口で話しかけ、不快感を与えるケースが多いようです。

ただ、最近では会話をせずに買い物ができるスーパーが当たり前になっているので、コミュニケーションがとれる買い物が少ないのかもしれませんし、物騒な世の中となり子供だけの「おつかい」は難しいでしょうが、近所の簡単な「おつかい」くらいは、お子さんに頼んではどうでしょうか?

ちなみに、ヤラセだの大袈裟だのといわれてますが、テレビ番組の「はじめてのおつかい」はイロイロな意味で好きな番組です。
サザエさんがお使いを頼もうとする。カツオはバットを片手に一目散に逃げていく。近所の人たちは眉にしわ寄せあきれ顔。一方、ワカメちゃんは「はぁい」とるんるんでお使いを遂行し、街の人たちの笑顔に包まれる。そんなシチュエーションは本当になくなってしまった。

私の場合、女子だったからかもしれないが、やはりワカメタイプでるんるんとお使いに行った。母の真似をしてちょっと大人になった気分だったし、何よりおつりがお駄賃になるというのが魅力的だった。そういう意味では、いかにつり銭をひねり出すかと、頭をつかったものだ。

子どもが自由に使えるお金を得るためには、何かしらしなくてはならなかった。

親の周りをうろうろして、手伝えることを探すとか、肩をもむとかして、一応の労働対価を得るのである。おじいちゃんやおばあちゃんの場合は、顔を見せるだけでも小遣いが出ることがあるので、割が良かったが、お年寄りが孤独になっている現代を見ると、そういう子どもによる年寄り見舞いの行為は重要なことだったかもしれない。

もう一つの手段としてはご褒美だ。こちらの場合は努力も然る事ながら才能も必要となる。テストで100点を取る。運動会で一等賞をとる。展覧会で入選する。何かしら自分の得意分野がないと、おいそれとはいかない。時には全ての分野に秀でた優等生の子がいて、平々凡々の私などは羨ましいばかりであった。

あとは拾った財布を交番に届けるとか、道路でお年寄りの手を引くとかいう大人に褒められることをするというのもあるが、これはなかなか意図的にできるものでもないので、ひたすら正月を待ち、作り笑顔で親戚を巡り歩きと、これまたそれなりに努力するのである。そしてこの報酬を、欲しいものに優先順位をつけてどう割り振るかも頭の使うところであった。

いつの間に社会は変わったのだろう。近頃は小遣いを得るために努力する子どもたちをあまり見ない気がする。小さいうちから無条件に自由に使えるお金が親から与えられ、しかもそれが子ども同士の間で奪われたりすることもあるような社会になってしまった。笑顔で子どもを見守る大人のいない社会、子どもが何も考えずにお金を得られることが働けない大人を作り出したのかもしれない。


もっとも今や社会人となった息子や娘が、未だにお金につまると愛想よくやってきて、マッサージなどしてくれるのも、ちょっと困りものなのだが…

牛女

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