リレーエッセイ 小さなまほろばみぃつけた
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vol.01 両国に 熱い雪がふる   [著]いわきやすお

大相撲一月場所が両国・国技館でおこなわれ、盛況のうちに終了した。
1月19日に、昭和の大横綱だった大鵬幸喜氏が亡くなったというニュースが流れた。大鵬は、私の小学生時代から社会人になったときまで角界で活躍した。

1月14日(成人の日)は東京地方にも初雪が降った。 外出できないこともあり、久しぶりに大相撲をTVで観戦した。中継のなかで一月場所のポスターが映し出された。そこに打たれたコピーが「両国に 熱い雪がふる」であった。 作成者はまるでこの日を予見したかのようである。
力士の訃報史に触れるつもりはないが、1月には、名寄岩、栃錦、蔵間という人たちが亡くなっている。寒いことと関係があるのかも知れない。
相撲のことが頭をよぎったので、今回は相撲にまつわる思い出を書いてみた。

私が子どものころは、遊びといえば野球とか相撲などが中心であった。三角ベースという少人数でやる野球もした。相撲は草むらの上で、おたがいのバンドを掴みながら取り合った。大相撲力士のなかで、印象強く残っているのは横綱鏡里。布袋さまを彷彿させるような太鼓腹に頼もしさを感じた。鏡里は昭和33年に引退しているので、55年前のことになる。強い力士というのではないが、名寄岩という大関も記憶のなかにある。小学生の夏休みの夜、校庭で映画の上映会があり、そのとき観たのが「涙の敢闘賞名寄岩物語」だった。糖尿病を始めとした病と闘って相撲人生を送った人である。関脇だった房錦勝比古という力士も覚えている。「褐色の弾丸」という異名が付けられた。房錦の活躍を描いたマンガ本を買ってもらい読んだ。「土俵物語」という映画にもなった。

小兵力士として印象に残っているのが、初代若ノ花と栃ノ海である。若ノ花は栃若時代を築いた一人で、10回の優勝回数を重ねた。若ノ花が107㎏、栃ノ海が110㎏で、共に軽量力士だった。若ノ花と栃錦の相撲は両者譲らずの熱戦で、水入り相撲が多かった。なかには二回も水入りという取り組みもあり、今では考えられない長い時間の闘いだった。そういえば、最近の相撲では水入り相撲が殆どない。時間内に取り組みを終えたいという思惑もあるのだろうが、5分にもわたる熱戦がなつかしい。栃ノ海はキビキビとした相撲を取る横綱で、面立ちが日馬富士とどこか似ていた。

個性的な力士としては北葉山である。柏鵬時代にいた大関で、うっちゃりの北葉山、待った!の北葉山とも呼ばれた。もう一人は取り口というのではなく、仕切りに個性を見せた北の洋である。左右の足で、土俵に円を描くような独特の仕切りをしていた。ちなみに金星10個は最高記録という。

1月14日のTV観戦に戻るが、当日の解説者だった八角親方(元横綱北勝海)は、取り組み解説のなかで、「器用な相撲は取らないこと」という指摘をしていた。引いたり、はたいたりして勝つ相撲ではなく、常に前に出る相撲を力説していた。大事なことは、その勝ち方ではないだろうか。言い得て妙で、私たちの生き方にもあてはまるものと理解した。

「巨人、大鵬、玉子焼き」という、子どもたちの好きなものの代名詞のひとつが消えていき、時代の流れを感じた。国技である大相撲、日本人横綱の出現を期待してやまない。表題は一月場所のコピーを引用させてもらった。ごっつあん!です。

以上 
「巨人、大鵬、玉子焼き」を好きな男の子たちは、みんな大人になってしまい、今は何が好きなのでしょうか?
今自分が母親になって、母と同じように子育てしたつもりだったけれど、よく考えたら随分違っていたのかもしれない。
もうすぐ嫁に行く娘は、やはりまた違った子育てをするのだろうと思う。
そういえば長男、次男のときはせっせと洗った布おむつ 三番目の娘の時はおでかけの時だけ紙おむつだったけれど、今おむつが干してある家も見当たらないし、背中におぶった赤ん坊を見ることもない。
社会が変化し過ぎていて、親が子に伝えることがどんどんなくなっていく。
子どもを育てるのが親でなく社会になってしまったら、それはあまりに不自然ではないだろうか。
社会と子どもの間に親、そしてその周辺にいる大人がきちんと挟まっていないと、なんだかおかしなことになる気がするけれど・・・

牛女

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